
【祭文】と書いて、「さいもん」と読む。
【稀代】と書いて、「きたい」と読む。
【還俗】と書いて、「げんぞく」と読む。
どこで教わったのか、何で見たのか記憶がないわりに、意外と正しく漢字を読めていることがあります。おそらく10代のころに覚えたものだろうと思います。
人生もかなり長くなりましたので、10代のころの記憶など、なくて当たり前かもしれませんね。ただ、その10代の前半で、既にこれらの漢字の読み方を知っていたのが、我ながら不思議です。
このごろ興味を持っている四国の民間信仰に、「いざなぎ流」というものがありまして、それについてのフィールドワークの記録に、この「祭文」という言葉が頻出します。
このような文章から長く離れていたせいでしょうか。「懐かしいなぁ!」と、しみじみと思います。
いざなぎ流の太夫(たゆう)は言います。
「山のものは山へ、川のものは川へ」。
これは、「山の精霊は山へ、川の精霊は川へ戻るように」と促す言葉です。いつまでも人里にいて、人間をからかってはならないと。
このように、私たち人間の登場よりも、はるか昔から地球上にいた存在たちに語りかけるわけです。今は人間が地球の主のような顔をしていますが、それは大きな勘違いかもしれません。
人間の力だけで解決できない問題が起きたとき、自然の力に頼ろうとするのは、そのことを本能的に、そして経験的に知っているからではないでしょうか?
例えば月に向かって祈る、お狐さま(お稲荷さん)にお参りをする。
私たち人間の目に見えるものには限界があります。
自然に宿る精霊の力を借りる際には、彼らを呼び出す言葉が必要となります。これが祭文(さいもん)です。祭文は精妙にできているので、一言一句、決まりどおりに唱える必要があります。「だいたい合っている」では、何の効力も発揮しません。
自然と対峙して修行する人々は、そのことをよく知っています。
略語や間違った日本語から言霊の力は生まれません。
日常生活においては、略語も役に立つことがあるでしょう。しかし、本気で冀う(こいねがう)ときには、どうぞ、略語を元の言葉に戻してみてください。その言葉の持つ本来のパワーを発揮してくれるはずです。
◎敷島の大和の国は言霊の幸はふ国ぞ真幸くありこそ
(しきしまの大和の国は、言霊のさきわう国ぞ、まさきくありこそ)
【稀代】と書いて、「きたい」と読む。
【還俗】と書いて、「げんぞく」と読む。
どこで教わったのか、何で見たのか記憶がないわりに、意外と正しく漢字を読めていることがあります。おそらく10代のころに覚えたものだろうと思います。
人生もかなり長くなりましたので、10代のころの記憶など、なくて当たり前かもしれませんね。ただ、その10代の前半で、既にこれらの漢字の読み方を知っていたのが、我ながら不思議です。
このごろ興味を持っている四国の民間信仰に、「いざなぎ流」というものがありまして、それについてのフィールドワークの記録に、この「祭文」という言葉が頻出します。
このような文章から長く離れていたせいでしょうか。「懐かしいなぁ!」と、しみじみと思います。
いざなぎ流の太夫(たゆう)は言います。
「山のものは山へ、川のものは川へ」。
これは、「山の精霊は山へ、川の精霊は川へ戻るように」と促す言葉です。いつまでも人里にいて、人間をからかってはならないと。
このように、私たち人間の登場よりも、はるか昔から地球上にいた存在たちに語りかけるわけです。今は人間が地球の主のような顔をしていますが、それは大きな勘違いかもしれません。
人間の力だけで解決できない問題が起きたとき、自然の力に頼ろうとするのは、そのことを本能的に、そして経験的に知っているからではないでしょうか?
例えば月に向かって祈る、お狐さま(お稲荷さん)にお参りをする。
私たち人間の目に見えるものには限界があります。
自然に宿る精霊の力を借りる際には、彼らを呼び出す言葉が必要となります。これが祭文(さいもん)です。祭文は精妙にできているので、一言一句、決まりどおりに唱える必要があります。「だいたい合っている」では、何の効力も発揮しません。
自然と対峙して修行する人々は、そのことをよく知っています。
略語や間違った日本語から言霊の力は生まれません。
日常生活においては、略語も役に立つことがあるでしょう。しかし、本気で冀う(こいねがう)ときには、どうぞ、略語を元の言葉に戻してみてください。その言葉の持つ本来のパワーを発揮してくれるはずです。
◎敷島の大和の国は言霊の幸はふ国ぞ真幸くありこそ
(しきしまの大和の国は、言霊のさきわう国ぞ、まさきくありこそ)